書籍・雑誌

2018年8月13日 (月)

公正な文化に対する3つの問い ~「ヒューマンエラーは裁けるか」を読みました!その5~

 やっかいなインシデントに対する対応として、本書では、3つの問いを掲げます。

  1. 組織や社会において、許容できる行動と許容できない行動との間の線引きを誰がするのか。
  2. 行動が許容できるかの判断において、当該領域の専門知識が果たすべき役割は何か?それはどこで果たすべきか。
  3. 司法による介入に対して、どのようにして安全データを守るか。

 以上3つの問いに関して、いくつかのパターンで、解決策を示しています。

 一つ目の問いがおそらく一番本書で主張したいことなのでしょう。過失に対しては専門家による検証により対応し、司法により対応しないということもあるのでしょうが、そうは事は単純ではないでしょう。専門家により検証=仲間内のなれ合いというふうに捉えられる可能性もあります。

 現行の制度でも、弁護士会による懲戒のように専門職が行う審査の仕組みもありますが。ちょっと性格が違うのかもしれません。

 世の中には、多くの人が関わるシステムで構成される業務があります。その中で、システムの安全性の向上のためには、検証と改善が不可欠ですが、司法による対応がそれを妨げているとするとき、どのように社会は対応するのか。

 なかなか難しい問題だなと思います。

「ヒューマンエラーを裁けるか」を読みました!記事一覧

 「ヒューマンエラーは裁けるか」を読みました!
 後知恵バイアス ~「ヒューマンエラーは裁けるか」を読みました!その2~
 技術的エラーと規範的エラー ~「ヒューマンエラーは裁けるか」を読みました!その3~
 司法の「介入」 ~「ヒューマンエラーは裁けるかを読みました!その4~
 公正な文化に対する3つの問い ~「ヒューマンエラーは裁けるか」を読みました!その5~

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2018年8月12日 (日)

司法の「介入」 ~「ヒューマンエラーは裁けるかを読みました!その4~

 この本の主張としては、司法による介入は、望ましくない場合があるということです。司法による情報開示だったり、明らかになる事実は、「必ずしも率直で、完全な、偏りのない」ものではないと主張しています。

 まあ、有罪か無罪が一番の争いになる司法の場では、0.1%の責任でも、「無」罪ではないでしょうということになれば、当事者は、情報を開示したがらないのは、ある意味必然でしょうね。

 本書では、それに対し、逆の立場からの見方も記載しています。

 まず、被害者。被害者にとって、裁判手続きは、公の場で、自らの言い分を聞いてもらえるのが大きいというのが、本書の分析です。そして、被害者の多くは、裁判手続きが公正を実現しているとは思っていないとしています。(特に実務者に責任を押し付けるような解決に対して)そのことともかかわるのでしょうが、被害者が金銭的補償を求めているのではないとしています。

 これらの言い分のバックデータの記述が不十分なため、ちょっとそのまま鵜呑みにするのは困難ですが、そのように思っているということですね。ちょっと性善説すぎる主張なような気がします。被害者(遺族)の「失敗したでは済まされない」との感情を十分触れられていない気もします。

 次に司法の立場から見た記述です。というより、司法が問題の解決に適さないという論述に近いかなという印象でしたが。

 法は、人々の生命を脅かすことを禁止します。検察官が起訴すべき「過失」の法令上の規定は、故意に曖昧となっているとしています。

 このことは、複合的、かつリスクの高い(そもそも正常な業務そのものが、人々の生命を脅かすような性格をもつような)業務に対して、適用させることによる「公正でない」対応につながるとの主張なのでしょう。

 裁判官の側の課題も提示しています。本書は、裁判官の課題として「事実を認定する。」「事実に法律違反が含まれるか否かを判断する」「もし法律違反があれば、適当な懲罰ないし他の判決を決定する」の3つを掲げています。いずれも実務者の専門的な用語が飛び交う文脈の中での「公正」な判断にはならないと断じています。

 司法ではありませんが、もう一点だけ、見逃していてはいけない指摘がありました。起訴される当事者の雇用組織についてです。雇用組織が、いわば、とかげのしっぽ切り的に、全てを「腐ったりんごのせいにする単純な説明」を行うがありうることを示しつつ、それは、組織に対する倫理的な付託への裏切り行為だと指摘してます。

 刑法第38条では、「故意」にかかる規定として、「罪を犯す意思がない行為は、罰しない。ただし、法律に特別の規定がある場合は、この限りでない。」としています。つまり過失犯は、「法律に特別の規定」がある場合の特例となります。

 法の下の平等という観点からは、高度専門性があるからとかいう理由で、適用除外となるというのも、納得いくものではないような気もしますが、「過失」というものをやたら刑事事件化し、システムの改善を妨げているのは、あまり良い仕組みではないのだろうなとは思いました。 (最後の記事へ

「ヒューマンエラーを裁けるか」を読みました!記事一覧

 

「ヒューマンエラーは裁けるか」を読みました!
 後知恵バイアス ~「ヒューマンエラーは裁けるか」を読みました!その2~
 技術的エラーと規範的エラー ~「ヒューマンエラーは裁けるか」を読みました!その3~
 司法の「介入」 ~「ヒューマンエラーは裁けるかを読みました!その4~
 公正な文化に対する3つの問い ~「ヒューマンエラーは裁けるか」を読みました!その5~

 

 

 

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2018年8月 8日 (水)

技術的エラーと規範的エラー ~「ヒューマンエラーは裁けるか」を読みました!その3~

 昨日の記事で、「適用のミス」「規範的なミス」というのを引用しました。

 本書では、同様の概念で、「技術的エラー」と「規範的なエラー」という考え方を示しています。

 技術的エラーとは、実務者が精一杯その職務を果たしているにも関わらず、今のスキルがその課題の要求する水準に及ばない場合をいうそうです。そういうものは、システムの改善により対応すべきだというのが、本書の考え方でしょう。

 一方で、規範的なエラーとは、勤勉に職務を果たさない専門家の犯すミスとします。これについては、有責性を問われてしかるべきというのが、本書の考え方なのでしょう。

 ただ、「精一杯職務を果たす」「勤勉に職務を果たさない」ってかなり主観的ですね。

 そのこともあり、その判断を誰がするのかが問題となります。(次の記事へ

「ヒューマンエラーを裁けるか」を読みました!記事一覧

 「ヒューマンエラーは裁けるか」を読みました!
 後知恵バイアス ~「ヒューマンエラーは裁けるか」を読みました!その2~
 技術的エラーと規範的エラー ~「ヒューマンエラーは裁けるか」を読みました!その3~
 司法の「介入」 ~「ヒューマンエラーは裁けるかを読みました!その4~

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2018年8月 7日 (火)

後知恵バイアス ~「ヒューマンエラーは裁けるか」を読みました!その2~

 後知恵バイアスとは、「結果よければ、全てよし」の逆バージョンです。

 悪い結果に終わったことを知ると、人は、そのプロセスの失敗に注意が向きます。結果を知っての分析には、本書では次のようなバイアスを生むとしています。

  • 因果関係を簡略化しすぎる。
  • 結果の見込み(とそれを予見する能力)を過大評価する。
  • 規則や手続きに対する「違反」を過大評価する。
  • 当事者に与えられた情報のその時点での重要性、関連性を誤判断する。
  • 結果の前に行った行動と結果をつり合わせる。

 特に最後のものが大きいですね。結果が重大だと、通用のミスでも規範的なミスに見えてくると、本書では指摘します。結果が重要な事案は、失敗者により多くの「説明責任」を負わせます。

 これは、結果が重要なことになる責任の多い業務を請け負うものに対し、「不公平」というのが本書の立場です。

 その考え方の是非はともかくとして、「バイアス」であることは事実でしょうね。結果を知ったあとの判断というものは、慎重に行う必要があるというのは納得がいきます。(次の記事へ

「ヒューマンエラーを裁けるか」を読みました!記事一覧

 「ヒューマンエラーは裁けるか」を読みました!
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2018年8月 5日 (日)

「ヒューマンエラーは裁けるか」を読みました!

 「失敗の科学」で、名著と紹介されていた本です。「失敗の科学」では、「公正な社会」という標題で、紹介されてもいました。「失敗の科学」のエピソードも主として本書でも紹介されています。

 副題は、「安全で公正な文化を築くには」となっています。

 「安全で公正な文化」といいますが、なかなか難しいものだなというのが感想です。本書の主張としては、航空業界や医療、児童虐待のソーシャルワークなど、人命にかかる危機にかかる業務に携わる方々のヒューマンエラーの発生は、司法で裁くのは適切ではないということです。

 理由としては、それらの失敗が提供されるシステムの問題を背景として起こっており、それを「たまたまその時に対応した」個人の責任として位置付けることは適当でないこと、失敗から学び、システムを改善していくことが妨げられることなどを挙げています。

 そうは言っても、失敗が重大な結果になったとき、それでは済まされないという人もいるでしょうし、一方で、その重大なことが予想される局面に、業務として携わっている者に対し、「済まされない」 の一言で、「裁き」を決めるというのも無責任だろうという気もします。

 結果的には、失敗の責任の判断については、本書でも「どれが」というのは、難しいとし、「誰が」それを判断するかが大切と主張しています。

 それは、細かい事情のわからない「司法システム」ではなく、専門家など同職種などから構成される組織が決定し、それを当事者、被害者、社会が受け入れることが望ましいという主張です。

 そうは、言ってもというところで、やはり難しいなと印象ではありました。

 面白い概念としては、後知恵バイアスという言葉が印象に残りましたが。(次の記事へ

「ヒューマンエラーを裁けるか」を読みました!記事一覧

 「ヒューマンエラーは裁けるか」を読みました!
 後知恵バイアス ~「ヒューマンエラーは裁けるか」を読みました!その2~
 技術的エラーと規範的エラー ~「ヒューマンエラーは裁けるか」を読みました!その3~
 司法の「介入」 ~「ヒューマンエラーは裁けるかを読みました!その4~
 公正な文化に対する3つの問い ~「ヒューマンエラーは裁けるか」を読みました!その5~
 

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2018年7月29日 (日)

「非難の文化」の正体 ~「失敗の科学」を読みました!その8~

 筆者は、非難を「人間の脳に潜む先入観によって、物事を過度に単純化してしまう行為」としています。リビア・アラブ航空114便のイスラエル軍による撃墜事件を例に出し、「実際に何が起こったのかを理解する前に、勝手な非難をするのは無意味だ」と指摘します。

 リビア・アラブ航空撃墜事件の際は、民間航空機を撃墜したイスラエル軍に対する非難が巻き起こりましたが、その後のブラックボックスの分析で、リビア・アラブ航空が進路を誤認していたこと、イスラエル軍をエジプト軍と誤認しており、イスラエル軍の警告に正しく対応できなかったことなどが分かりました。

 「非難は、(中略)、複雑な出来事を「〇〇の責任だ」と直感的な結論で簡単に片づけてしまう。」と筆者は指摘します。そのことが、適切な事実の分析と対策の検討を妨げるということです。

 同じく、公人への非難に対し、それを煽る新聞や雑誌をなくしても解決しないとします。そもそもこういった商売が成り立っているのは、それだけ需要があるからだし、我々が「シンプルで都合のいいストーリーが好きなのだ」と指摘しています。

 昨日のリンクで紹介した記事も、「実際に何が起こったのか」法定で検証が始まる前に、書かれています。そういう記事には、それだけ需要があり、商業的に成り立つのでしょう。

 我々が、そのような記事を”喜んで”、娯楽的に読むことにより、子どもが死んでいくようなことにならないようにあって欲しいものです。

 本書のエピローグは、冒頭で紹介されていた医療過誤により妻を亡くしたパイロットの家庭の5年後を描いています。成長した子ども達(事故当時5歳と4歳)は、世の中を変える人になった父を誇りに思い、母もそれを喜んでいるだろうと話している場面で結んでいます。

 読み物としても、大変面白い本でした。

「失敗の科学」を読みました!記事一覧

 失敗の科学 失敗から学習する組織、学習できない組織 を読みました!
 完璧な集中の陥穽 ~「失敗の科学」を読みました!その2~
 CRM (クルーリソースマネジメント) ~「失敗の科学」を読みました!その3~
 認知的不協和 ~「失敗の科学」を読みました!その4~
 「反事実」による検証 ~「失敗の科学」を読みました!その5~
 「リーンスタートアップ」 ~「失敗の科学」を読みました!その6~
 「非難の文化」と魔女狩り症候群 ~「失敗の科学」を読みました!その7~
 「非難の文化」の正体 ~「失敗の科学」を読みました!その8~

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2018年7月28日 (土)

「非難の文化」と魔女狩り症候群 ~「失敗の科学」を読みました!その7~

 「非難の文化」。これは残念ながら我々の社会が持ってしまっている病です。筆者は、この「非難の文化」が時には重大な結果を生み出すことを指摘します。

 2007年,ロンドン西部のハリンゲイで、ピーターコネリーという17ケ月の男の子が亡くなった。(当時は、プライバシー保護のためベビーPと報道されていた。)小さなピーターの死の15ケ月後、実の母、彼女の恋人とその兄が3人が子どもを死なせた罪で実刑判決を受けた。

 しかし、翌日の新聞報道では、この3人とはまったく別の人々に非難が集中した。イギリスの日刊大衆紙「ザ・サン」は、第1面に「血塗られた手」と見出しを掲げて彼らを叩き、他の新聞も大々的に非難した。

 彼らの矛先は、当時ピーターを保護する責任があった人々、特にピーターを直接担当していたソーシャルワーカーのマリア・ウォードと地区児童安全保障委員会委員長のシャロン・スミスに向けられた。「ザ・サン」は、彼らの解雇を求めて嘆願書を作成。新聞の紙面に彼女らの写真を掲載。「この二人を知っていますか」と見出しを付け、電話番号を添えた。

 シュー・スミスの元には殺害の脅迫状が送られ、さらには彼女の娘にも殺害予告が送られ、身を隠さねばならなかった。ウォードも身の危険を感じ、自宅を離れた。

 世の中に恐ろしいことが起きると同じくらい恐ろしい目に合わせようとする動きが起こることがある。この時の経験は、まさに「セイラムの魔女裁判」を思わせた。

 しかし、ここまで大騒ぎになれば、その後はソーシャルワーカーの仕事ぶりは改善されるだろうと人々は確信していた。いわば「たとえ懲罰が度を超していたとしても、それによって相手は姿勢を正し、けじめをつけるだろう。」という考え方だ。

 では、その結果はどうなったのか。結果は、ソーシャルワーカーの辞職の急増だった。十分な常勤スタッフを確保できず、代理業者の委託金を約2億円を支払うこととなった。2011年には、児童福祉職で1350人の欠員が報告されている。

  一方、辞めずに仕事を続けたソーシャルワーカーたちは、以前よりはるかに多くの件数を担当するようになった。当然、一人ひとりの子どもにかけられる時間が減る。自分の管理下の子どもたちに何かあった場合を恐れ、強引に介入しはじめた。危険な信号を見過ごして、「魔女狩り」に遭うわけにはいかないと考えたのだ。

 日本でも似たようなことが起きていないですかね。心配です。こんな記事を見かけましたが。果たしてどうでしょうか。

https://article.auone.jp/detail/1/3/6/7_6_r_20180609_1528535214203233

https://jisin.jp/domestic/1638877/

 確か児童虐待防止法では、虐待による死亡事案が起きた際には、事例検証が義務付けられています。必要な体制が採られて、調査も行われた上での検証です。その検証をまたずに、尤もらしい記事を構成できるものだと感心はしますが。

 その後に生じた状況について、著名な評論家や学者のほどんどは、メディアによる「関係者の説明責任を向上させるための」非難報道によって、児童が受けた被害は大きいと主張した。こうした非難騒ぎの翌年、虐待によって死亡した児童の数は、25%増加し、その後3年間増加し続けた。

 そりゃ、守る側を叩くのだから、自然な成り行きですね。冷静に考えてみれば、子どもを守ると主張しながら、逆に守る側を叩くというのは、論理矛盾です。そのことは、「非難の文化」、またマスコミのいう「説明責任を向上させる。」という事が、実は、娯楽的、商業的な要素が多分に入っていないのかという点が、かなり気になるところです。本書でも少し触れていますが、長くなったので、明日にしたいと思います。

 ベイビーP事件の最終報告書が出されたとき、内容に政治的操作がされているのではないかと疑惑の声が出た。確かに報告書の作成者らは、国民の怒りの声を抑えるのは、難しいと感じていたようだ。誰かをエスケープゴートにしなければ、自分たちの身に危険が及ぶかもしれない。懲罰指向の文化では、こうした事態が起こる。

 筆者は、シドニー・デッカーの「公正な文化」から引用し、こう書いています。

 「問題は、非難したり(中略)、相手は責任感を強く持つようになると思い込んだままでいいのかということだ。」

 自分をごまかすのはこの辺でやめにしよう。

 ちなみに、ベビーP事件の顛末は、下記のサイトに詳しくまとめられています。

http://www.news-digest.co.uk/news/news/uk-news-column/12869-2014-11-06.html

 実態は、本書に記述された以上に酷かったということですね。

 下記は、学術論文ですが、政治的な政権交代による影響があったことも認めています。

https://www.sonoda-u.ac.jp/tosyo/ronbunsyu/園田学園女子大学論文集45/215-242.PDF

 本書のテーマは、「失敗の科学」です。失敗から学ぶことにより、システムを向上させることが大切ということですが、それを阻むものが日本にないのか、心配になりました。この「非難の文化」についても、本書では解説しています。(次の記事へ

「失敗の科学」を読みました!記事一覧

 失敗の科学 失敗から学習する組織、学習できない組織 を読みました!
 完璧な集中の陥穽 ~「失敗の科学」を読みました!その2~
 CRM (クルーリソースマネジメント) ~「失敗の科学」を読みました!その3~
 認知的不協和 ~「失敗の科学」を読みました!その4~
 「反事実」による検証 ~「失敗の科学」を読みました!その5~
 「リーンスタートアップ」 ~「失敗の科学」を読みました!その6~
 「非難の文化」と魔女狩り症候群 ~「失敗の科学」を読みました!その7~
 「非難の文化」の正体 ~「失敗の科学」を読みました!その8~

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2018年7月27日 (金)

「リーンスタートアップ」 ~「失敗の科学」を読みました!その6~

 筆者は、小さな失敗の効用を強調します。失敗から学ぶことが、システムの進化につながると考えているからです。

 それはスポーツマンであった自分の経験も影響しているのかなと推察します。(自分のエピソードの紹介はありませんが。)筆者はベッカムのエピソードを紹介しています。ベッカムは、6歳の頃は、平均的なサッカー少年。しかし、学校から帰ると、粘り強く練習し、父親が帰ってきたあとも一緒に練習するような子どもだったとのこと。それを見ていた両親にとっては、未来の成功も何万回の失敗の賜物だったということです。

 作者は、失敗は「してもいい」ではなく、「欠かせない」ものだといいます。

 そんな失敗をあえて、取り入れていくのが、「リーンスタートアップ」です。「リーンスタートアップ」は、無駄のないという意味の「リーン」と起業を意味する「スタートアップ」を組み合わせた造語です。

 想定された顧客が必要とするサービスをなるべくコストをかけずに開発する「構築」。この時の製品等は、MVP(Minimum Viable Product)、実用最小限の製品というそうです。

 さらにその製品を、自ら情報収集し、判断するような人々(アーリーアダプター)に提供。反応を見ます。このプロセスを「計測」とします。

 そして、それを製品(サービス)に反映します。(「学習」)

 この「構築」「計測」「学習」のプロセスを繰り返し、短期間で繰り返していきます。

 本では、どちらかというと、この考え方を得たエピソードの紹介が中心でしたが、確かにβ版と称してサービスを提供しているものは、ネット関係では多いですね。

 このように、事業などには、大きな成果をもたらす「失敗から学ぶ」ことでも、それを妨げる文化が我々の社会にはあるようです。(次の記事へ

「失敗の科学」を読みました!記事一覧

 失敗の科学 失敗から学習する組織、学習できない組織 を読みました!
 完璧な集中の陥穽 ~「失敗の科学」を読みました!その2~
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 認知的不協和 ~「失敗の科学」を読みました!その4~
 「反事実」による検証 ~「失敗の科学」を読みました!その5~
 「リーンスタートアップ」 ~「失敗の科学」を読みました!その6~
 「非難の文化」と魔女狩り症候群 ~「失敗の科学」を読みました!その7~
 「非難の文化」の正体 ~「失敗の科学」を読みました!その8~

 

 

 

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2018年7月26日 (木)

「反事実」による検証 ~「失敗の科学」を読みました!その5~

 このことを取り上げた章のタイトルは『「物語」が人を欺く』というものでした。

 章は、17人のティーンエイジャーが刑務所に連れてこられるくだりから始まります。「スケアード・プログラム」と呼ばれる犯罪抑止のプログラムで、刑務所に犯罪傾向のある少年を連れて行き、囚人たちに脅させる様を表現しています。
 しかし、筆者は、このプログラムに効果がなかったとします。その説明のためにRCT(ランダム化比較試験)を紹介しています。
 RCTとは、効果のあるとされる仮説を用いた群(介入群)と用いなかった群(対照群)について比較し、効果を検証する方法です。
 例えば、ウェブサイトのデザインを変えたら、売り上げが伸びた場合、その変更に意味があったのか、それ以外の要因かはわかりません。たまたまその商品が話題になったりだとか、他の要因があるのかもしれません。他の要因=仮説に反する事実=「反事実」は、目に見えないのです。
 RCTでは、少なくとも仮説要因を切り分けて検証はできます。例えば、ウェブサイトから2つのデザインのサイトにランダムに誘導し、効果を測れば、デザインについてのみの検証が可能でしょう。
 筆者は、行政分野などでは、ほんどRCTが実施されていないとの指摘を紹介しています。確かにそもそもRCTを実施すること自体が倫理的に問題がある場合もありうるでしょう。そんな場合でも、「物語」に反するような視点での検証というのが必要というのは理解できます。
 
 人は、こうあって欲しいという結論に飛びつきたがりますが、違う要因だったらという検証が大事なのでしょう。
 筆者はこの章の末尾を「スケアード・プログラム」に参加した少年がその後、殺人犯となった事実で閉じています。(次の記事へ

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2018年7月23日 (月)

認知的不協和 ~「失敗の科学」を読みました!その4~

 「認知的不協和」どこかで、聞いた概念だなと思ったら、「いじめを許す心理」で、いじめを傍観する側が行う要因として取り上げられており、紹介していました。

 人間は、自分の持つ信念と反する事実を突きつけられると自分の過ちを認めるより、事実の解釈を変えてしまうことがあります。次から次へと自分に都合のいい言い訳を並べ立て、時には、事実を完全に無視してしまうこともあります。(どっかの国の大統領がフェイク○○だと騒いだことも思い出します。)

 自分の持つ信念(言動、考え方など)と異なる事実に直面した際、人間は自尊心が脅かされ、おかしな状態となってしまいます。その状態を認知的不協和と呼びますが、それを解消するために、事実に新たな解釈をつけたり、あるいは、無視したり、忘れたりします。

 そして、信念だとか、あるいは過誤があったことに対する代償の大きい、エリートほど、その傾向は強いとされます。優秀な人間ほど、うまい具合に、自己正当化(事実を事後的に編集)してしまうため、失敗によって得られたはずの教訓が得られなくなります。

 筆者は、そのことによるシステムの改善が得られないということを問題としています。

 この自己正当化のエピソードは、本書には枚挙にいとまがないほど掲載されています。

 「いじめ~」 のときは、よくある話じゃないのと思ったりもしましたが、それが大きな社会的影響が生じるとなると話は別かなという気もします。(どっかの国の大統領の話も含めて)(次の記事へ

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